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2017年2月25日 (土)

南北統一

金正男氏暗殺事件。北朝鮮大使の妄想発言。韓国の慰安婦問題。国をあげての大盛り上がり。祖国統一の日は近い。いやすでに統一されている。

2016年11月 5日 (土)

吾唯足知

吾唯足知
「吾れ唯足るを知る」と読む。
「私には必要なものは全て与えられている。」と言う意味。

禅語である。
この言葉を先ほどネットで見て衝撃を受けた。
私の心が一番欲していた言葉である。

時間がない。
金がない。
頼れる人がいない。

などと妄想を抱く。

よくよく考えれば、
人には平等に一日24時間与えられているし、
生きていくなら十分な金もある。
この日本には1億2千万人以上の人がいる。

一体何が不足していると言うのか?

「私には必要なものは全て与えられている。」

満ち足りた人生観である。

2016年1月 8日 (金)

悪口




北朝鮮の水爆実験を受けて、韓国が国境での宣伝放送を再開。

それが自国民に聞こえないように、北朝鮮でも宣伝放送を開始したという。

つまり、お隣と巨大なスピーカーを使って悪口を言い合っているのである。

「ば〜か、ば〜か!」
「おまえのかぁちゃん、で〜べ〜そ〜!」

どちらも正義の戦いなのだ。

パク・クネ大統領の告げ口外交の正当性はここらにありそうだ。

文化が違うとはこういうことなのだろう。


理想論




ベッキー、大変だね。

そりゃ32歳なんだから、色々あるだろうさ。

芸能人なんだから、あまり厳しく断罪するのもね。

ヤフーニュースとコメントを見ていたら、

日本人って意外とあるべき論で判断するね。

儒教の影響かね?

あと論調が偏る。みんな同じことを言う。

いいじゃねぇか、不倫をしたくてした訳でもねぇし。

たまたま好きになったら女房がいただけだろう。

大体、表でキレイごとを言う奴は、裏で悪いことをしてるに決まってるんだ。(偏見か?)

まぁ、彼女には踏ん張ってもらいたいものだ。

芸風をガラッと変える必要はあるだろう。

矢口真里が超えることができなかった壁を超えて欲しいものだ。

2015年8月25日 (火)

肩の荷がおりる

 
絶対に認めたくないネガティブは自己像と不快な感情は、フタをして、カギをかけ、鎖でぐるぐる巻きで、深い海の底にドッボーンと沈めてますね。
 
 
やっと悟りました。劣等感に苛まされて、振り回されてたことを。薄々は気づいていたんですが、やっぱりバカなんですね、私。よく、今まで生きてこれたと褒めてあげたくなりました。
 
 
よくよく考えれば、私がバカであろうが、優秀であろうが、そんなことはどうでもよくて、人を愛して、幸せに一緒に生きていけたら、それで満足なんですよね。
 
 
そんなことをこの夜中にはたと思ったら、重いものが肩からドッサリおりました。そしたらある公案が解けました。
 
 

『州勘庵主』 無門関十一

趙州がある庵主のところに行って、「おい、しっかり生きているかい」と問われた。
すると庵主が拳を挙げた。
そこで趙州は、「こんな浅いところに舟を泊めるわけにはいかん」と言ってどんどん行ってしまった。
趙州はまた別の庵主のところに行くと、すぐ、聞かれた、「おい、しっかり生きているかい」。
ここの庵主もまた同じように拳を挙げた。
趙州は、「与えたり奪ったり、殺したり活かしたり、なんと自由なことじゃないか」と言ってこの庵主には頭を下げられた。
 
無門は言う、
「二人とも拳を挙げたのに、いったいどうして一方を褒め他方を無視したのか。
その深い勘所がどこにあるか諸君は分かるだろうか。
もしそこの処を言い当てるに適切な一句を出してくることができるような人間なら、文句無しにかの趙州の、わずか舌先三寸で他人を助けたり突き倒したりする大自由を見抜いてしまうに違いない。
ところがどうだ、趙州ともあろう男が逆に二人の庵主に正体を見抜かれてしまっているではないか。
また、もし二人の庵主の間に優劣があるとでもいう人があるなら、彼にはまだ禅に参じる眼力さえないというものだ。
優劣の差などあるものかなどというならば、その人もまた参禅の眼力なしだ」。
 
頌って言う、
目敏いことは流れ星、
ハタラク早さは稲妻よ。
殺す刀がそのままに、
人をも活かす剣となる。

2015年7月29日 (水)

似非ポジティブ

この手の人間は痛い。ポジティブになろうとする人にポジティブな人はいない。ネガティブだからこそ、ポジティブな振りをする。
 
 
 
辞書を見てみると、ポジティブとは、「① 肯定的、積極的 ② 電池の+極 ③ 写真のポジ」と書いてある。
 
 
 
逆にネガティブとは、「① 否定的、消極的 ② 電池の-極 ③ 写真のネガ」と書いてある。
 
 
 
どこにも「良い」「悪い」などと書いてない。どうせなら自分のネガティブさを、積極的に使ったらどうだろうか?
 
 
 
医者などはネガティブな方が信用がおける。
胸の写真を撮る。小さな影がある。
「ま、気にしない、気にしない。何事もやる気です!」
なんて言われても困る。ネガティブに、念には念を入れて検査してもらいたい。
 
 
 
日本人の美意識もネガティブの賜物のようなものだ。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」などその例だろう。
 
 
 
ここで必要なものは「第三の目」だ。第一の目はポジティブに見る目。第二の目はネガティブに見る目。そして第三の目は、自分がポジティブ、ネガティブの軸で物事を見ていると、俯瞰的に把握する目である。
 
 
 
人を思いやることができる人も、ネガティブな人が多いように思う。
 
 

2015年7月28日 (火)

男はパスタをゆでるのが上手い?

「男の人って、パスタをゆでるのが上手いじゃん。」
 
 
何かの会合で会った女性。お付き合いした男性が、連続3人パスタをゆでるのが上手かったらしい。
 
 
 
現実は5W1Hを含む。含まないのは妄想。
 
 
 
パスタをゆでるのが上手かったのは、◯◯さんと、△△さんと、▢▢さん。
 
 
 
その事実を地球規模に拡大してしまった。
 
 
 
「誰が」→「誰でも」
「どこで」→「どこでも」
「なぜに」→「なぜだか」
 
 
 
「地球上に生息する人間のオスは、どんな個体であろうとも、なぜだかパスタを上手にゆであげてしまう。」
 
 
 
私もやりがちなこと。気をつけねば^_^

2015年7月17日 (金)

真っ直ぐに聞く


私は人の話を聞けない時がある。自分が非難されているように聞く時だ。勿論、妄想である。勝手な思い込みだ。
 
 
 
一方、私の耳は他人から賞賛の声を聞きたがる。無意識に賞賛されるように話をする。これでは自慢話に聞こえてしまう。
 
 
 
人にはギフト(生まれ持った個性)がある。それは価値観をつくりだす。その価値観が外部の声を拾ってくる。無意識に取捨選択している。
 
 
 
賞賛と非難は、価値観の軸の+と-である。私の耳は偏った聞き方をする。真っ直ぐに相手の言うことを聞かない。
 
 
 
相手からの助言が、非難されるように聞こえると、自分を守るために、逆に相手を非難する。これでは喧嘩になってしまう。
 
 
 
賞賛の声を聞きたい第一の耳、非難されるように聞く第二の耳。それらとは別に、第三の耳がある。
 
 
 
「ああ、私は今、非難されているように話を聞いている。」「今、褒められているように話を聞いている。」と少し距離を置いて聞くのが第三の耳だ。
 
 
 
この耳で聞けば、相手の本意が聞こえてくる。相手の愛が聞こえてくる。
 
 
 
自分が相手の話をどのように聞いているか、相手が自分の話をどのように聞いているかを把握することは大事なことだと思う。

2015年7月14日 (火)

禅幹塾

臨済宗妙心寺派元管長の則竹老師にお会いした時、著書『禅 迷わずまっすぐ』の裏表紙にサインを頂いた。私の名前から一字を取って即興で、しかも素晴らしく達筆な毛筆のサインである。
 

 

 

「大樹は根幹にあり」と書いて頂いた。多分私のあり方を見て、枝葉末節ではなく根幹がしっかりしていなければ、大樹にはならんよという戒めだと感じた。それからいつも自分の根幹は何だろうかと、自問自答してきた。

 

 

 

その体験を基に今回、『禅幹塾』という経営塾を立ち上げた。経営者としての根幹は何だろうか?それを探究するのが目的である。私から経営について教えることなどない。ただひたすら、自分と向かい続ける。そこで、欲していた答えを、自ら見つけ出すのだ。

 

 

 

この答えを見つけるには、公案と呼ばれる禅の質問が効果的だ。私はこの公案を十年来解きつづけてきた。私の禅など野狐禅もいいところだが、公案から得られた気づきを、違う、もっと平易な質問で得られるようにプログラム化した。謂わば、「現代版経営公案禅」である。

 

 

 

参加された経営者の話を聞くと、自分なりの経営の根幹が掴めたと言う。十人十色の言葉の如く、人はそれぞれ個性が違う。経営の「使命」もそれぞれ違う。他から借用してこれるものではない。自分で探し出すしかないのだ。

 

 

 

今回の禅幹塾でそれぞれの経営者が自分の生まれながらの使命を掴んだ。そのさまは感動という言葉そのものだ。私の使命がここにある。他は全く欠けている自分であるが、周りのみなさんに補ってもらい、より良い社会をつくり出せたらと思う。

 

 

 

2015年7月12日 (日)

肥やし

この世に生きるものは、自分以外から何かを頂いて生きている。


植物も大地から養分をもらって生きている。それは肥やしだ。



では人間の肥やしは何だろうか?



それは「苦しみ」である。



大きな器の人間ほど、大きな苦しみを受ける。その人が他人の肥やしになるように。


2015年7月11日 (土)

ケチ


自分がケチだと思う時がある。
労を惜しむ。
時間を惜しむ。
金を惜しむ。



物を惜しむ。
思いやりを惜しむ。
愛を惜しむ。



コミュニケーションを惜しむ。
自己表現を惜しむ。
リーダーシップを惜しむ。



全てを与えたい自分がいるのに関わらず、出し惜しみをする自分がいる。結局損得に囚われているのだと思う。



出すものと、得られるものとの差をいつも気にしている。出し惜しみをすると、まるで得をしているかのような錯覚に陥る。結局は損をしていることに気づかない。



私は両親の無償の愛を受けて育った。今、私の周りにいる人も、非常に気前の良い人ばかりだ。損得抜きに協力してくれている。私はそんな人たちに支えられて生きてきた。



私の元に来る人は、私より素晴らしい人ばかりである。そんな人たちのために、ケチを手放し、もっと気前よく生きられたらと思う。

2015年7月10日 (金)

あるべき論


「あるべき論」に縛られることがある。その時自分は縮こまり、力を失う。
大体あるべき論に収まりたくないから、自分は独立したのだ。
 
 
 
自分に自信がないせいか、あるべき論を振り回す輩がいる。
 
 
 
「社会人なら」
「良識があるのなら」
「大人なら」
「普通は」
 
 
 
やかましい!と言いたい。
自分の考え、価値観を一般化するな!と言いたい。
 
 
 
『コロンブス 1492』という映画がある。
最期コロンブスが落ちぶれて、スペインの宮廷を後にする場面。
敵対していた貴族の財務官が彼に吐き捨てるように言う。
「夢を喰って生きろ!」
するとコロンブスは窓の外を指さしてこう言う。
「何が見える?」
 
 
 
財務官は答える。
「そびえる宮殿、天にも届く教会の塔、文明だ。我らの誇りだ。」
コロンブスは言う。
「そうだ、文明だ。すべては私のような人間が創ったのだ。君たちのような貴族にはつくれまい!」
 
 
 
あるべき論は人生を小さく、つまらないものにする。
そして何も新しいものを創りださないと思うが、いかかがだろうか?
 
 

2015年7月 9日 (木)

自己表現

 

自己表現とは何だろうか?

「自己をあるがままに表に現わすこと」だろうと思う。

できればカッコよく自分を表したい。

 

 

 

でもどうしてそう思うんだろう?

どこかで自分がカッコ悪いと思ってるからだ。

 

 

 

じゃいつからカッコ悪くなったのだろう?

子供のころにカッコ悪い、恥ずかしい体験をしたからだ。

 

 

 

私のカッコ悪いデビューは幼稚園のころ。

担任の竹田先生が言った。

 

 

 

「みんなお手洗いに行ってきてねー。」

私は迷わず水道場に行き、手をゴシゴシと洗った。

 

 

 

「あれ?みんな来ないな?」

何やらトイレが込み合う気配が。

後ろに人の気配を感じ振り向くと、竹田先生が苦笑いしていた。

 

 

 

それ以降かっこ悪さに磨きをかけるように生きてきた。

カッコ悪いライナップも豊富に。

 

 

 

弱虫。(小学校3年の時転校して、初日に喧嘩で負けて泣きじゃくっ。)

 

バカ。(幼稚園に入る前5歳上の姉に字が読めないのをからかわれて。)

 

能無し。(父にそう説教されて。)

 

嘘つき。(母に友達のおもちゃを取ったことで詰問されて。)

 

ひねくれ者。(小学校1年のころ、担任の羽田先生に罵倒されて。)

 

ケチ。(小学校4年のころ、友達に借金20円の返済をせまったら逆切れされ。)

 

 

 

これじゃまずいと思って、取り繕うように演技してきた。

 

 

 

強く見えるように。

 

優秀なように。

 

有能なように。

 

正直者のように。

 

まっすぐなように。

 

気前がいいように。

 

 

 

今振り返ると涙ぐましい努力をしてきた

 

 

 

「あるがまま」でいられない。

本当の自分がばれるのが怖い。

そうすると自己表現できなくなる。

 

 

 

他人の前で着飾っているから疲れる。

でもよく考えると出発点は「恥ずかしい」からだ

 

 

 

恥ずかしいは感情のこと。

たかが感情で自己表現を犠牲にしていると思うともったいない。

 

 

 

どうせ恥ずかしい人間だし、ま、いっか!」

そう考えると一歩先に進めるようになる

 

 

 

ワクワクする未来


子供のころはどうして、あんなにも未来が広がっていたのだろうか?子供は何も持っておらず、自分という器が空っぽだ。だからこそ、いつも未来が開けていたのだ。
 
 

こんな禅の公案がある。
 
 

〈趙州和尚が茶碗を洗えと言った話〉
 
色々な寺を廻って、修行を積んでいる僧が、
 
趙州和尚の道場へやってきた。
 
「私は来たばかりの新米です。何か素晴らしい教えを頂きたいのですが。」
 
趙州和尚はそれには答えず、
 
「おまえさん、朝飯は食べたかね?」と聞かれた。
 
「はい、いただきました。」と僧が答えると、趙州は、
 
「それでは茶碗を洗っておきなさい。」と言った。
 
その一言で、この僧は悟りを得た。
 
 
 
我々は、何かを得るのが人生の目的になっている場合がある。この修行僧も、何かを得たくて趙州の道場にやって来た。
 
 
 
お金を得たら、
愛する伴侶を得たら、
 
 
 
人よりいい地位を得たら、
誰も知らないような知識を得たら、
 
 
 
人が羨むような肉体を得たら、
完全なる自由を得たら、etc.
 
 
 
何かを得たら本当に満足するなら、それでいいだろう。しかし、人間は何かを得たら、また次の何かを得たくなるものだ。
 
 
 
これではいつまでたってもキリがない。
いつも何かが足りない、十分な感じがしないまま生きている。趙州和尚はそこを見透かして、自分自身を空にしろと言ったのだ。
 
 
 
これだけ何かを得たにもかかわらず、虚しいのは、
得たものが全部、我々の未来にギュッと詰まってしまったからだ。固定観念ができあがり、そこから見る未来には可能性がない。
 
 
 
逆に何かを手放すようにしたらどうだろうか?
それは自分という茶碗を洗うことだ。
 
 
 
過去の成功体験、失敗体験。
人に対する恨み、つらみ。
 
 
 
意固地になっている自分の主義主張。
他人との比較。
 
 
 
いつまでたっても実行に移さない夢物語。
善悪に対するジャッジ、etc.
 
 
 
余分なものを手放せたら、子供のころのように明るい未来が開けてくる。なぜなら、我々は元々、明るい未来を背負って生まれてきたからだ。
 
 
 
それが大人になるにしたがって、他人と比較して、より多くのものを得ようと競争するようになった。そして未来は見えているが、輝くようなそれではなくなった。
 
 
 
この連鎖は続く。
子供は愛する親の言うことを、一生懸命聞こうとする。そして、それを信じて、何かを得ることに熱中し、ひたすら自分の未来に詰め込むのだ。
 
 
 
今、どんなに何かを持とうとも、未来が閉ざされている人生は幸せとは言えない。
逆に今は何も持たなくとも、未来が開けている人間は幸せである。と私は思うのだが、いかがだろうか?
 
 

2015年7月 7日 (火)

犬が怖い


 
私の研修に幼稚園のころ、犬に足を咬まれた女性が参加した。
それからウン十年過ぎているにも関わらず、今も犬が怖いという。
 
 
 
頭では分かっているが、子犬が無邪気に飛びついてきても、身体が避けてしまう。
頭で分かっていることが、そのまま行動に反映されないことは多いのではないか?
 
 
 
そこには気づかない妄想がある。
妄想とは、「現実だと信じて疑わない、自分独自のネガティブで非現実的な世界観」である。
気づいている妄想もあれば、気づかない妄想もある。
 
 
 
中学生がアイドルから告白され、デートすることを妄想する。
本人は非現実的な世界であることを知っているので問題はない。
もしこれが現実的なことだと思い込んでいたらストーカーになってしまう。
 
 
 
現実は5W1Hを含む。警察に捕まると何度でも同じ質問を受けるそうだが、それはこの5W1Hを確かめるためではないか?嘘をついていると、「いつ」「どこで」「誰が」「なぜ」「どのように」「何を」したのかがあやふやになる。
 
 
 
妄想は「いつ」「どこで」「どのように」が消える。
代わりに「いつでも」「どこでも」「どのようにしても」と一般化する。
 
 
 
先ほどの女性に当てはめるならば、
「犬は私を咬む。」(いつでも、どこでも、どのようにしても)
 
 
 
被害妄想なら、受動態になり、
「私は犬に咬まれる。」(いつでも、どこでも、どのようにしても)
という風に短いセンテンスで構成される。
 
 
 
この妄想に気づかないと、まるでシナリオがあるかのように同じことを繰り返す。
意識下で我々はこのシナリオに沿って行動する。
どんなに頭で考えても、このシナリオを破る行動はできない。
 
 
 
新しいハウ・ツーを学んでも意外に使えないのはこのためだ。
元々、意識下では両手を前に突っ張って、拒絶しているのだから。

 
 
ならばどうしたらいいのか?
まずは過去の体験を思い出してみることだ。
そこには不快な感情が絡んでいるので、ちょっと苦しかもしれない。
そしてそこから生まれた意識下の妄想を言語化してみることだ。
 
 
 
そして自分に言い聞かす。
「私は犬に咬まれる。」「そしてこれは妄想だ。」
これを何度も繰り返す。
 
 
 
すると犬への恐怖心が薄らぎ、「意外に犬ってかわいいかもしれない…。」
と思えてくる。
妄想を妄想だと掴むと、我々は足枷から解放される。
お試しあれ。
 
 

2015年7月 6日 (月)

ギフト

 

生まれ持った個性のことを「ギフト」と呼んでいる。それは先天的な、「性格・性質」、「才能・能力」、「場への影響力」のことだ。
自信がないという人は自分のギフトを知らないだけなので、それを知れば自信が持てるようになる。
 
 
 
今でも自分のギフトを発見することがある。
最近見つけたのは、「オープンさ」だ。
私を知っている人なら、「何を今更…。」と言うかもしれない。 
 
 
 
私の研修では、ほとんどの人が自分のプライベートなことを、オープンに話をする。
そして親密な人間関係がすぐにつくられる。
他で言えないことでも、ここでは言えるのだ。
 
 
 
それが私の作る場だということを今更ながらに掴んだ。
これが私が「場に与える影響」なのだ。
これは生まれ持った私のギフトである。
 
 
 
オープンなことが良いことでも、悪いことでもない。
ただ、私がいるとそういう場がつくられる。
このことを知っている必要がある。でないと諍い事に発展することもある。
 
 
 
思い返せば、このギフトのせいで、嫌な思いもたくさんした。
ギフトは頼りになる武器にもなるが、苦の種にもなりうる。
 
 
 
小学校3年生の時に転校したのだが、隣のクラスのガキ大将と大喧嘩となった。
あちらから見れば、秩序を乱すとんでもないヤツに映ったのだろう。結果、他の子らも加勢して袋叩きにあった。
泣きながら授業に戻った時のバツの悪さを今でも憶えている。
 
 
 
しかし、このギフトがあるから、こういった研修ができるのだ。
組織開発の仕事をする時も、このギフトが役立っている。
私が自分のギフトを認め受け入れれば、それは私の武器になるし、それを否定すれば、私の足かせとなる。
 
 
 
私の息子は非常にオープンマインドだ。知らない人にも、大声で挨拶する。
先日、温泉に行った時、知らない大人に大声で、「こんにちは!いいお湯ですね。」と言っていたのを聞いて、こっちがドギマギした。彼と私は似ているのだ。
 
 
 
それと同時に、人間関係が難しくなっているのを知っている。
秩序を乱す生徒として、やり玉にあげられ、魔女裁判にかかっているようだ。
オープンな人間は、他人もオープンであると勘違いしがちだ。
 
 
 
自分のアプローチが否定されると相当なショックを受ける。
そして人間関係にフタをするようになる。
本当の自分は閉鎖的なのではないのか、協調性がないのではないかと疑う。
私がそうだったのでよく分かる。
 
 
 
自分のギフトを明確に掴み、それを使命の達成に役立てればいい。
人はそれぞれ役割が違うのだ。
まずは自分の個性を肯定することから始めてはいかかだろうか?
 
 

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2015年7月 5日 (日)

莫妄想(まくもうぞう)


妄想することなかれ


妄想とは、「自分が現実だと疑わない、自分独自の非現実的な世界」を言う。要するに「勘違い」だ。
 
 

「自分はダメだ。」
「自分はまだまだだ。」
 
 
はい、莫妄想。
 
 
「自分はできない。」
「自分には無理。」
 
 
はい、莫妄想。
 
 
「自分は愛されない。」
「自分には価値がない。」
 
 
はい、それも莫妄想。
 
 
一体、私は何を言いたいのか?
 
 
あなたはあるがままで素晴らしい!
そう、言いたい。
 
 
「でも、それなら努力する必要ないじゃないか。」という人がいる。
 
 
いやいや、素晴らしいままで、努力すればいい。
何か決めたら、とことんやり切ればいい。
 
 
素晴らしいあなたのままで。
 
 
ただし、自分のためではなく、人のためにね。
そうすれば、もっとこの世の中は生きやすくなるでしょ。
 
 


人生の力の根源は何か?
それは愛である。
 
 
人生五十年生きて、やっとたどり着いた結論だ。
 
 
これまでの長い間、愛にフタをして生きてきた。
正直言って「愛」が何かが分からなかった。
(こういう人も多いと思うが…。)
 
 
愛に敏感な人ほど、愛に傷つく。
そして愛を否定する。
 
 
4月に経営塾を開いたところ、ある社長が家族を本当に愛していることに気づき涙した。
 
 
それを見て、私に言葉にならないものが伝わった。
 
 
とても熱いものだった。
 
 
休憩中に一人で海を見ながら、ボーっとしていた。
 
 
するとある言葉が私の胸に去来した。
 
 
 
「それでも人を愛したい。」
 
 
 
涙が止まらなかった。
 
 
その後何時間も頭がクラクラした。
 
 
それからである。
訳も分からず、私の中に力が湧いてくるのだ。
その感覚は今も続いている。
 
 
人生はどこを切っても愛があふれている。
人は愛と無関係には生きていけない。
 
 

好き嫌い


好き嫌いを無くそうと頑張る人がいる。 
誰にでも寛容で、愛が深い人間になろうと苦労している。 
 
 

ちょっと待って欲しいと言いたい。 
どうして好き嫌いをハッキリさせてはいけないのだろう?
 
 

なぜ好き嫌いがあるのかを考えてみると、 
その根底には自分なりの価値観が働いていると思う。 
 
 

自分の価値観に合った人を好きになり、 
そうでない人を嫌いになる。 
好き嫌いはフィルターの役目を果たしている。 
 
 

好き嫌いを通して、同じ価値観を共有した人が集まる。 



これはビジネスをする人にとって大事なことだ。 
自分の生まれ持った個性(ギフト)に一貫したマーケットが出来上がるからだ。 
 
 

自分の商品・サービスもギフトから造られているはずだ。 
この商品・サービスとマーケットが一貫しているとビジネスが上手くいく。
 
 

だから、無理して人を好きになる必要はないし、
人から好かれる必要もない。 
 
 

ただ、自分らしく、あるがままにいればいいだけだ。 
 
 

自分のギフトに合う人は集まってくるし、合わない人は去っていく。 



私の場合100人いれば20人には好かれ、
20人には蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われる(笑)
 
 

それでいいのである。 
 
 

ある人が私のトレーニングに参加した。 
この人は過去1000万円以上、セミナーにつぎ込んだことがあるという。
どんなに高額のセミナーも本当に成功するのは上位4%の人だけらしい。 
 
 

彼が言った。 
 
 

「佐藤さんのところには、その4%の人が来ている。驚きました。」 
どおりで私のトレーニングに来ている人は、簡単に結果を出すはずだ。 
 
 

でも、なぜ4%の人が来るのか? 
それは私が無意識に好き嫌いで人を選択していたからだと気づいた。 
 
 

白状すれば、私はグズは嫌いである。 
頭の凝り固まった人間も、感性の鈍い人間も嫌いだ。 
 
 

行動力がない人間、決断が遅い人間、 
約束や時間を守れない人間も嫌いである。 
 
 

社会貢献の意志がなく、自分のことばかり考えている人間も嫌いだし、 
何かにすがって生きている人間も嫌いだ。 
 
 

それが相手に伝わっていたのだ。 
 
 

結果、リーダーシップを持った、結果をつくれる人間だけが残ったわけだ。 
 
 

これでいいのである。 
 
 

勘違いしないで欲しいが、そのような人間を否定している訳ではない。
 
 

そのような人間も愛している。ただ嫌いなだけである。
愛と好き嫌いは同じではない。これは高度な分別だと思う。 
 
 

人を嫌ってはいけない、好きならねばならないと無理をしていると、
結局、愛をなくしてしまう。 
 
 

「おまえのことなんて大嫌いだ。顔を見るのもいやだ!」
 
 

と、もし言うことができるとしたら、そこから相手の良いところも見えてきて、愛が生まれることだってある。 
 
 

嫌いな人とだって、普通に仕事をすることができる。
なぜなら、好き嫌いは私の中の問題で、その人には関係がないからだ。 
 
 

好き嫌いをハッキリさせてもいい。
無理に人を好きになるよう、頑張らなくともいいと私は思うだが、いかが?

2015年5月25日 (月)

犬には悟りの心があるのか?

禅の世界でいう「無」とか「空」とか、それって何だろうか?私が親しんできた禅は「坐禅」ではなく、「看話禅(かんなぜん)」である。いわゆる禅問答だ。一休さんのアニメにも出てくるあれである。
 
 
 
この禅問答にはネタ本がある。『臨済録』『従容録』『無門関』『碧巌録』などが有名だ。私は『無門関』を解きつづけてきた。
 
 
 

『無門関』は中国13世紀初頭に禅僧の無門慧開により編纂された公案書である。
禅僧のための入門書であるが、難解なことこの上なし。初めて読んだのは10年以上前だけど、一行も理解できなかった。
 
 
 
最新の物理学書でも、読めばなんとなくは分かるだろう。それはロジカルに書かれているからだ。ところが公案書は、徹頭徹尾、パラドキシカルに書かれている。だから一読しても何がなんだか分からない。世の中には不思議な書があるもんだと思った。
 
 
 
無門関の第一則にこんな公案がある。
 
 
 
『趙州狗子(じょうしゅうくす)』
 
 
ある僧が趙州和尚に向かって、「狗(犬)にも悟りの心がありますか?」と問うた。趙州は「無い」と答えられた。
 
 
 
無門慧開も師匠からこの公案を与えられて、解けるまで実に6年の歳月がかかったという。
 
 
 
この「無」は一般に言う「有無」の「無」ではない。「空」をベースにした、いわば「絶対無」である。
 
 
 
何が違うかというと、この世界の「存在」をどう捉えるかによって違ってくる。
 
 
 
人間の分別の心を離れてこの世界は「有る」のか「無い」のかという話だ。欧米の文化では「有る」と答えるだろう。なぜならば聖書の冒頭部分にそう書かれているからだ。神が世界を創った…創世記である。
 
 
 
元から存在しているものが、目の前にあって、ただそれを人間が認識しているという捉え方だ。彼らは「空」を解釈をつけないこと、「空っぽ」であることと捉える。
 
 
 
旧約聖書の『伝道者の書』の影響かもしれない。
 
 
 
「空の空。伝道者は言う。
 空の空。すべては空。
 日の下で、どんなに労苦しても、
 それが人に何の益になろう。」
 
 
 
どことなく空しさを感じさせる。しかし禅の「空」はもっと深い。
 
 
 
私がこの犬の公案が解けたのは、無門関を読みだして3年ほど経ってからだ。その時私は人間関係に悩んでいた。静岡へ出張する新幹線の中で、漠然とこの公案のことを考えていた。
 
 
 
「犬にはなくて、人間にある悟りの心って何だろうか?」
 
 
 
今考えるとトンチンカンな探求である。なぜなら趙州和尚は他の公案では「有る」と答えているからだ。
 
 
 
要するにこの「有無」の話ではないのである。「有無」の向こう側の話なのだ。
 
 
 
「犬に無くて、人間にあるものは…?」
 
 
 
「犬は飼い主にエサをもらって、お散歩に連れて行ってもらえていいな。」ぐらいに考えた。
 
 
 
「それに比べて人間である俺は今日も、もめ事の中に入って行かなければならない…。」
 
 
 
そう考えた刹那、雷に打たれた感があった。
 
 
 
なかなか言葉には言い表しづらいが、この人間であるが故に感じる苦しみがあるからこそ、人生は素晴らしいと感じた。
 
 
 
「苦しみ」と「喜び」、それは表裏一体なのだ。苦しみの無い喜びはなく、喜びの無い苦しみも無い。
 
 
 
そしてそれらは、私の外側には無く、私の内側にあるのだ。内側にあるものを、外側に投影しているから、外側にあるように感じるだけだ。
 
 
 
その時私は、「この世界を創り出しているのは自分だ。」と悟った。
 
 
 
その瞬間、すべてが一変した。
 
 
 
被害者だった自分から解放された。すべては私が創り出しているのだ。人生に起こること全ては私に責任がある。
 
 
 
「ああ、人間って本当に素晴らしいな!」
「その人間のひとりに生まれて本当にありがたい。
 
 
 
そういう思うと涙がとめどもなく流れた。
 
 
 
釈迦が2500年前に「人生は苦である。」と言った。
 
 
 
これを聞くとだから諦めろとか、そういう心掛けでいれば苦を受け入れられるとか、そういう風に考えるかもしれない。
 
 
 
「人生は苦である。そして人生は素晴らしい!」、そういう風に彼は伝えたかったのではないか?
 
 
 
少なくとも私はそう理解している。我々人間の心は、喜びを生み出すとともに、苦しみをも生み出す。
 
 
 
人生は時として過酷である。楽な時ばかりではない。それでも生きていることは素晴らしいと思う。
 
 
 
しかし、残念なことにその人生も永遠に続くものではない。やがてこの世から去る時が来る。それは愛する人との別離をも意味する。何とももの悲しいことである。
 
 
 
正直言って、「死」とは何かは分からない。宗教的な来世観は別にして、一体死んだら何があるのだろうか?
 
 
 
なんというか、有るとか無いとかの言葉もそぐわないほど、徹底して何も無い気がする。
 
 
 
それが「空」であると気づいた。
 
 
 
一般にいう「有無」は「存在」という背景がなければ成り立たない概念だ。
 
 
 
この存在をつくりだしているのが人間の心の働きである。「空」の世界には「有無」が存在しない。もうそこには心が存在しないからだ。
 
 
 
抽象的な哲学論に聞こえるかもしれないが、「空」自体に意味があるわけではない。(あったとしたら既に「空」ではない。)
 
 
 
大事なのは人生の密度がいかに濃いものであり、それを創り出しているのはこの自分だということだ。逆に考えれば、自分が望めば、大概のことは成就する可能性がある。
 
 
 
そしてその人生も、やがては終わる。死なない人などいない。これは真理である。
 
 
 
だから周りの人を愛し、自分が成すべきことを成すことが大事だと思う。そう思うと、私は励まされ、今やれることをやろうと思える。
 
 
 
私は禅に救われたのだ。
 
 

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