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2015年8月25日 (火)

肩の荷がおりる

 
絶対に認めたくないネガティブは自己像と不快な感情は、フタをして、カギをかけ、鎖でぐるぐる巻きで、深い海の底にドッボーンと沈めてますね。
 
 
やっと悟りました。劣等感に苛まされて、振り回されてたことを。薄々は気づいていたんですが、やっぱりバカなんですね、私。よく、今まで生きてこれたと褒めてあげたくなりました。
 
 
よくよく考えれば、私がバカであろうが、優秀であろうが、そんなことはどうでもよくて、人を愛して、幸せに一緒に生きていけたら、それで満足なんですよね。
 
 
そんなことをこの夜中にはたと思ったら、重いものが肩からドッサリおりました。そしたらある公案が解けました。
 
 

『州勘庵主』 無門関十一

趙州がある庵主のところに行って、「おい、しっかり生きているかい」と問われた。
すると庵主が拳を挙げた。
そこで趙州は、「こんな浅いところに舟を泊めるわけにはいかん」と言ってどんどん行ってしまった。
趙州はまた別の庵主のところに行くと、すぐ、聞かれた、「おい、しっかり生きているかい」。
ここの庵主もまた同じように拳を挙げた。
趙州は、「与えたり奪ったり、殺したり活かしたり、なんと自由なことじゃないか」と言ってこの庵主には頭を下げられた。
 
無門は言う、
「二人とも拳を挙げたのに、いったいどうして一方を褒め他方を無視したのか。
その深い勘所がどこにあるか諸君は分かるだろうか。
もしそこの処を言い当てるに適切な一句を出してくることができるような人間なら、文句無しにかの趙州の、わずか舌先三寸で他人を助けたり突き倒したりする大自由を見抜いてしまうに違いない。
ところがどうだ、趙州ともあろう男が逆に二人の庵主に正体を見抜かれてしまっているではないか。
また、もし二人の庵主の間に優劣があるとでもいう人があるなら、彼にはまだ禅に参じる眼力さえないというものだ。
優劣の差などあるものかなどというならば、その人もまた参禅の眼力なしだ」。
 
頌って言う、
目敏いことは流れ星、
ハタラク早さは稲妻よ。
殺す刀がそのままに、
人をも活かす剣となる。

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コメント

禅の宗派は 「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」と三つあり、これらを総称して「禅 宗」と言いますね。禅宗では仏の悟りを「月」として経を「月を差す指」と言い、仏の悟り(月)を得た後は経典(月を指す指)は必要ないとしてその教義は達磨の「教外別伝・不立文字」「直指人心・見性成仏」に代表されますね。「教外別伝・不立文字」とは、お釈迦様の教えの真意は文字などで表現する事ではなくて以心伝心の経典とは別に心より心へと伝えられ
ると言うものですね。直指人心・見性成仏とは教経を用いずに坐禅の修行によって自分の心を見つめ自己の本性が仏そのものであると知る事を言いますよね。禅宗では「教外別伝・不立文字」と主張しているにもかかわらず本尊と所依の経典を定めていますね。本尊は釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩を中心として宗派によってそれぞれ異なったものを立て一定していませんよ。また所依の経典も『金剛般若経』『楞厳呪』『観音経』で宗派によって様々であります 禅宗ではお釈迦様の一代聖教には真 実を顕さず真実の法はお釈迦様が迦葉 一人に一代の教えの他に別に伝えたと言いますね。しかしお釈迦様の涅槃の時には迦葉はその場にいな かったのであります。なのでお釈迦様が華を拈んで迦葉尊者が笑みを浮かべたという事はありません。禅宗でよく言う「拈華微笑」とは全く根拠のない作り話であります。「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わると言うが「教外別伝・ 不立文字」と仏が説いた事 自体が 教えであり言葉であり文字とし て残っているではないでしょうか? 不立文字とは文字を立てない事でありますから当然、経典などは用いない事になるのにその根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違ですよ。しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその存在はなく古来より偽経として扱われているのであります。 また達磨は『楞伽経』を註釈した書物を作り第二祖慧可に禅の法を伝えたとしていますがこれもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違しています。一代聖教を誹謗し経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は『涅槃経』の「若し仏の所説に随わざる者あらば是れ魔の眷属なり」と説かれるように天魔の所業と言わざるをえません。 更に「直指人心・見性成仏」と言い教経を用いず坐禅によって見る自己の本性が仏性であり仏そのものとします。確かに衆生は全て仏とも言えますがそれは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。三毒強盛の凡夫の心は迷いの心であってその心をいかに見つめても仏心を観ずることは出来ません。だからこそお釈迦様は 『涅槃経』に「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」と説かれて人の心は迷いの心であってその心を師匠とすべきでないと誡められているのであります。完全無欠の仏を蔑ろにして「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚癡無慚の心を持って「我が心を観じる事によって仏となる」という禅宗の教えは随分と増上慢な教えです あなたが単なる利益目的ではなく真の平和を祈る僧ならば近くの日蓮正宗 法華講の寺へ訪ねて改宗しなさい 南無妙法蓮華経

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