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2016年11月 5日 (土)

吾唯足知

吾唯足知
「吾れ唯足るを知る」と読む。
「私には必要なものは全て与えられている。」と言う意味。

禅語である。
この言葉を先ほどネットで見て衝撃を受けた。
私の心が一番欲していた言葉である。

時間がない。
金がない。
頼れる人がいない。

などと妄想を抱く。

よくよく考えれば、
人には平等に一日24時間与えられているし、
生きていくなら十分な金もある。
この日本には1億2千万人以上の人がいる。

一体何が不足していると言うのか?

「私には必要なものは全て与えられている。」

満ち足りた人生観である。

2015年7月17日 (金)

真っ直ぐに聞く


私は人の話を聞けない時がある。自分が非難されているように聞く時だ。勿論、妄想である。勝手な思い込みだ。
 
 
 
一方、私の耳は他人から賞賛の声を聞きたがる。無意識に賞賛されるように話をする。これでは自慢話に聞こえてしまう。
 
 
 
人にはギフト(生まれ持った個性)がある。それは価値観をつくりだす。その価値観が外部の声を拾ってくる。無意識に取捨選択している。
 
 
 
賞賛と非難は、価値観の軸の+と-である。私の耳は偏った聞き方をする。真っ直ぐに相手の言うことを聞かない。
 
 
 
相手からの助言が、非難されるように聞こえると、自分を守るために、逆に相手を非難する。これでは喧嘩になってしまう。
 
 
 
賞賛の声を聞きたい第一の耳、非難されるように聞く第二の耳。それらとは別に、第三の耳がある。
 
 
 
「ああ、私は今、非難されているように話を聞いている。」「今、褒められているように話を聞いている。」と少し距離を置いて聞くのが第三の耳だ。
 
 
 
この耳で聞けば、相手の本意が聞こえてくる。相手の愛が聞こえてくる。
 
 
 
自分が相手の話をどのように聞いているか、相手が自分の話をどのように聞いているかを把握することは大事なことだと思う。

2015年7月10日 (金)

あるべき論


「あるべき論」に縛られることがある。その時自分は縮こまり、力を失う。
大体あるべき論に収まりたくないから、自分は独立したのだ。
 
 
 
自分に自信がないせいか、あるべき論を振り回す輩がいる。
 
 
 
「社会人なら」
「良識があるのなら」
「大人なら」
「普通は」
 
 
 
やかましい!と言いたい。
自分の考え、価値観を一般化するな!と言いたい。
 
 
 
『コロンブス 1492』という映画がある。
最期コロンブスが落ちぶれて、スペインの宮廷を後にする場面。
敵対していた貴族の財務官が彼に吐き捨てるように言う。
「夢を喰って生きろ!」
するとコロンブスは窓の外を指さしてこう言う。
「何が見える?」
 
 
 
財務官は答える。
「そびえる宮殿、天にも届く教会の塔、文明だ。我らの誇りだ。」
コロンブスは言う。
「そうだ、文明だ。すべては私のような人間が創ったのだ。君たちのような貴族にはつくれまい!」
 
 
 
あるべき論は人生を小さく、つまらないものにする。
そして何も新しいものを創りださないと思うが、いかかがだろうか?
 
 

2015年7月 9日 (木)

自己表現

 

自己表現とは何だろうか?

「自己をあるがままに表に現わすこと」だろうと思う。

できればカッコよく自分を表したい。

 

 

 

でもどうしてそう思うんだろう?

どこかで自分がカッコ悪いと思ってるからだ。

 

 

 

じゃいつからカッコ悪くなったのだろう?

子供のころにカッコ悪い、恥ずかしい体験をしたからだ。

 

 

 

私のカッコ悪いデビューは幼稚園のころ。

担任の竹田先生が言った。

 

 

 

「みんなお手洗いに行ってきてねー。」

私は迷わず水道場に行き、手をゴシゴシと洗った。

 

 

 

「あれ?みんな来ないな?」

何やらトイレが込み合う気配が。

後ろに人の気配を感じ振り向くと、竹田先生が苦笑いしていた。

 

 

 

それ以降かっこ悪さに磨きをかけるように生きてきた。

カッコ悪いライナップも豊富に。

 

 

 

弱虫。(小学校3年の時転校して、初日に喧嘩で負けて泣きじゃくっ。)

 

バカ。(幼稚園に入る前5歳上の姉に字が読めないのをからかわれて。)

 

能無し。(父にそう説教されて。)

 

嘘つき。(母に友達のおもちゃを取ったことで詰問されて。)

 

ひねくれ者。(小学校1年のころ、担任の羽田先生に罵倒されて。)

 

ケチ。(小学校4年のころ、友達に借金20円の返済をせまったら逆切れされ。)

 

 

 

これじゃまずいと思って、取り繕うように演技してきた。

 

 

 

強く見えるように。

 

優秀なように。

 

有能なように。

 

正直者のように。

 

まっすぐなように。

 

気前がいいように。

 

 

 

今振り返ると涙ぐましい努力をしてきた

 

 

 

「あるがまま」でいられない。

本当の自分がばれるのが怖い。

そうすると自己表現できなくなる。

 

 

 

他人の前で着飾っているから疲れる。

でもよく考えると出発点は「恥ずかしい」からだ

 

 

 

恥ずかしいは感情のこと。

たかが感情で自己表現を犠牲にしていると思うともったいない。

 

 

 

どうせ恥ずかしい人間だし、ま、いっか!」

そう考えると一歩先に進めるようになる

 

 

 

2015年7月 6日 (月)

ギフト

 

生まれ持った個性のことを「ギフト」と呼んでいる。それは先天的な、「性格・性質」、「才能・能力」、「場への影響力」のことだ。
自信がないという人は自分のギフトを知らないだけなので、それを知れば自信が持てるようになる。
 
 
 
今でも自分のギフトを発見することがある。
最近見つけたのは、「オープンさ」だ。
私を知っている人なら、「何を今更…。」と言うかもしれない。 
 
 
 
私の研修では、ほとんどの人が自分のプライベートなことを、オープンに話をする。
そして親密な人間関係がすぐにつくられる。
他で言えないことでも、ここでは言えるのだ。
 
 
 
それが私の作る場だということを今更ながらに掴んだ。
これが私が「場に与える影響」なのだ。
これは生まれ持った私のギフトである。
 
 
 
オープンなことが良いことでも、悪いことでもない。
ただ、私がいるとそういう場がつくられる。
このことを知っている必要がある。でないと諍い事に発展することもある。
 
 
 
思い返せば、このギフトのせいで、嫌な思いもたくさんした。
ギフトは頼りになる武器にもなるが、苦の種にもなりうる。
 
 
 
小学校3年生の時に転校したのだが、隣のクラスのガキ大将と大喧嘩となった。
あちらから見れば、秩序を乱すとんでもないヤツに映ったのだろう。結果、他の子らも加勢して袋叩きにあった。
泣きながら授業に戻った時のバツの悪さを今でも憶えている。
 
 
 
しかし、このギフトがあるから、こういった研修ができるのだ。
組織開発の仕事をする時も、このギフトが役立っている。
私が自分のギフトを認め受け入れれば、それは私の武器になるし、それを否定すれば、私の足かせとなる。
 
 
 
私の息子は非常にオープンマインドだ。知らない人にも、大声で挨拶する。
先日、温泉に行った時、知らない大人に大声で、「こんにちは!いいお湯ですね。」と言っていたのを聞いて、こっちがドギマギした。彼と私は似ているのだ。
 
 
 
それと同時に、人間関係が難しくなっているのを知っている。
秩序を乱す生徒として、やり玉にあげられ、魔女裁判にかかっているようだ。
オープンな人間は、他人もオープンであると勘違いしがちだ。
 
 
 
自分のアプローチが否定されると相当なショックを受ける。
そして人間関係にフタをするようになる。
本当の自分は閉鎖的なのではないのか、協調性がないのではないかと疑う。
私がそうだったのでよく分かる。
 
 
 
自分のギフトを明確に掴み、それを使命の達成に役立てればいい。
人はそれぞれ役割が違うのだ。
まずは自分の個性を肯定することから始めてはいかかだろうか?
 
 

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2015年7月 5日 (日)


人生の力の根源は何か?
それは愛である。
 
 
人生五十年生きて、やっとたどり着いた結論だ。
 
 
これまでの長い間、愛にフタをして生きてきた。
正直言って「愛」が何かが分からなかった。
(こういう人も多いと思うが…。)
 
 
愛に敏感な人ほど、愛に傷つく。
そして愛を否定する。
 
 
4月に経営塾を開いたところ、ある社長が家族を本当に愛していることに気づき涙した。
 
 
それを見て、私に言葉にならないものが伝わった。
 
 
とても熱いものだった。
 
 
休憩中に一人で海を見ながら、ボーっとしていた。
 
 
するとある言葉が私の胸に去来した。
 
 
 
「それでも人を愛したい。」
 
 
 
涙が止まらなかった。
 
 
その後何時間も頭がクラクラした。
 
 
それからである。
訳も分からず、私の中に力が湧いてくるのだ。
その感覚は今も続いている。
 
 
人生はどこを切っても愛があふれている。
人は愛と無関係には生きていけない。
 
 

好き嫌い


好き嫌いを無くそうと頑張る人がいる。 
誰にでも寛容で、愛が深い人間になろうと苦労している。 
 
 

ちょっと待って欲しいと言いたい。 
どうして好き嫌いをハッキリさせてはいけないのだろう?
 
 

なぜ好き嫌いがあるのかを考えてみると、 
その根底には自分なりの価値観が働いていると思う。 
 
 

自分の価値観に合った人を好きになり、 
そうでない人を嫌いになる。 
好き嫌いはフィルターの役目を果たしている。 
 
 

好き嫌いを通して、同じ価値観を共有した人が集まる。 



これはビジネスをする人にとって大事なことだ。 
自分の生まれ持った個性(ギフト)に一貫したマーケットが出来上がるからだ。 
 
 

自分の商品・サービスもギフトから造られているはずだ。 
この商品・サービスとマーケットが一貫しているとビジネスが上手くいく。
 
 

だから、無理して人を好きになる必要はないし、
人から好かれる必要もない。 
 
 

ただ、自分らしく、あるがままにいればいいだけだ。 
 
 

自分のギフトに合う人は集まってくるし、合わない人は去っていく。 



私の場合100人いれば20人には好かれ、
20人には蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われる(笑)
 
 

それでいいのである。 
 
 

ある人が私のトレーニングに参加した。 
この人は過去1000万円以上、セミナーにつぎ込んだことがあるという。
どんなに高額のセミナーも本当に成功するのは上位4%の人だけらしい。 
 
 

彼が言った。 
 
 

「佐藤さんのところには、その4%の人が来ている。驚きました。」 
どおりで私のトレーニングに来ている人は、簡単に結果を出すはずだ。 
 
 

でも、なぜ4%の人が来るのか? 
それは私が無意識に好き嫌いで人を選択していたからだと気づいた。 
 
 

白状すれば、私はグズは嫌いである。 
頭の凝り固まった人間も、感性の鈍い人間も嫌いだ。 
 
 

行動力がない人間、決断が遅い人間、 
約束や時間を守れない人間も嫌いである。 
 
 

社会貢献の意志がなく、自分のことばかり考えている人間も嫌いだし、 
何かにすがって生きている人間も嫌いだ。 
 
 

それが相手に伝わっていたのだ。 
 
 

結果、リーダーシップを持った、結果をつくれる人間だけが残ったわけだ。 
 
 

これでいいのである。 
 
 

勘違いしないで欲しいが、そのような人間を否定している訳ではない。
 
 

そのような人間も愛している。ただ嫌いなだけである。
愛と好き嫌いは同じではない。これは高度な分別だと思う。 
 
 

人を嫌ってはいけない、好きならねばならないと無理をしていると、
結局、愛をなくしてしまう。 
 
 

「おまえのことなんて大嫌いだ。顔を見るのもいやだ!」
 
 

と、もし言うことができるとしたら、そこから相手の良いところも見えてきて、愛が生まれることだってある。 
 
 

嫌いな人とだって、普通に仕事をすることができる。
なぜなら、好き嫌いは私の中の問題で、その人には関係がないからだ。 
 
 

好き嫌いをハッキリさせてもいい。
無理に人を好きになるよう、頑張らなくともいいと私は思うだが、いかが?

2014年7月17日 (木)

この画をどう見る?




仙厓義梵(せんがい ぎぼん)という江戸末期の禅僧が書いた画だ。

この絵の解釈は様々である。

・□△○の順で、地・火・水を表している。
・天台・真言・禅を表している。
・世の中のあらゆるモノの形を表し、いずれは角が取れてマルくなる事を指している。
・世の中の形は全てこの3つの形で表す事が出来る。それは世界を表している。

私が見るに、人は四角四面になったり、とんがったり、丸くなったりと、時とともに移り変わり、本当の自分なんか無いという「諸行無常」「諸法無我」そして「空」を表しているようにも思える。だから賛(添えられた言葉)が無いのではないかと。
ま、禅画の解釈なんて野暮なだけだが。
大事なことは、それでも我々は□△○の世界で生きるしかなく、それが素晴らしいということだ。

ーーーー

仙厓義梵(せんがい ぎぼん、寛延3年(1750年) - 天保8年(1837年))は江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。禅味溢れる絵画で知られる。

美濃国武儀郡で生まれ、月船禅彗に師事。博多の聖福寺の住持を二十年務め、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す。東京の出光美術館は仙厓の絵のコレクションで知られている。(Wikipediaより)

2014年7月15日 (火)

人生の真ん中の苦しみ

人生の真ん中に苦しみがある。

人はそれを避けようとして生きている。

ある人は自由を求め、ある人は富を求め、

ある人は地位を求め、ある人は賞賛を求める。

例えそれが手に入ったとしても、苦しみは癒されない。

その人生の真ん中にある苦しみに向かい合った人しか心の平安は得られないのだ。

ずっと続けているお門違いな努力は手放して、自分自身の内に有る苦しみと向かい合ったらどうだろうか?

そうすれば自分の妄想から脱することができる。

2012年2月24日 (金)

不思善悪


『無門関』 23則 「不思善悪」

善悪を超えて一体何があるだろうか?

本当に難しい問題だ。

すべてが善悪のフィルターを通している。

善悪に囚われなければ、ギフトが発揮されて、

ビジョンが自然に実現されていくことだろう。

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