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2015年5月25日 (月)

犬には悟りの心があるのか?

禅の世界でいう「無」とか「空」とか、それって何だろうか?私が親しんできた禅は「坐禅」ではなく、「看話禅(かんなぜん)」である。いわゆる禅問答だ。一休さんのアニメにも出てくるあれである。
 
 
 
この禅問答にはネタ本がある。『臨済録』『従容録』『無門関』『碧巌録』などが有名だ。私は『無門関』を解きつづけてきた。
 
 
 

『無門関』は中国13世紀初頭に禅僧の無門慧開により編纂された公案書である。
禅僧のための入門書であるが、難解なことこの上なし。初めて読んだのは10年以上前だけど、一行も理解できなかった。
 
 
 
最新の物理学書でも、読めばなんとなくは分かるだろう。それはロジカルに書かれているからだ。ところが公案書は、徹頭徹尾、パラドキシカルに書かれている。だから一読しても何がなんだか分からない。世の中には不思議な書があるもんだと思った。
 
 
 
無門関の第一則にこんな公案がある。
 
 
 
『趙州狗子(じょうしゅうくす)』
 
 
ある僧が趙州和尚に向かって、「狗(犬)にも悟りの心がありますか?」と問うた。趙州は「無い」と答えられた。
 
 
 
無門慧開も師匠からこの公案を与えられて、解けるまで実に6年の歳月がかかったという。
 
 
 
この「無」は一般に言う「有無」の「無」ではない。「空」をベースにした、いわば「絶対無」である。
 
 
 
何が違うかというと、この世界の「存在」をどう捉えるかによって違ってくる。
 
 
 
人間の分別の心を離れてこの世界は「有る」のか「無い」のかという話だ。欧米の文化では「有る」と答えるだろう。なぜならば聖書の冒頭部分にそう書かれているからだ。神が世界を創った…創世記である。
 
 
 
元から存在しているものが、目の前にあって、ただそれを人間が認識しているという捉え方だ。彼らは「空」を解釈をつけないこと、「空っぽ」であることと捉える。
 
 
 
旧約聖書の『伝道者の書』の影響かもしれない。
 
 
 
「空の空。伝道者は言う。
 空の空。すべては空。
 日の下で、どんなに労苦しても、
 それが人に何の益になろう。」
 
 
 
どことなく空しさを感じさせる。しかし禅の「空」はもっと深い。
 
 
 
私がこの犬の公案が解けたのは、無門関を読みだして3年ほど経ってからだ。その時私は人間関係に悩んでいた。静岡へ出張する新幹線の中で、漠然とこの公案のことを考えていた。
 
 
 
「犬にはなくて、人間にある悟りの心って何だろうか?」
 
 
 
今考えるとトンチンカンな探求である。なぜなら趙州和尚は他の公案では「有る」と答えているからだ。
 
 
 
要するにこの「有無」の話ではないのである。「有無」の向こう側の話なのだ。
 
 
 
「犬に無くて、人間にあるものは…?」
 
 
 
「犬は飼い主にエサをもらって、お散歩に連れて行ってもらえていいな。」ぐらいに考えた。
 
 
 
「それに比べて人間である俺は今日も、もめ事の中に入って行かなければならない…。」
 
 
 
そう考えた刹那、雷に打たれた感があった。
 
 
 
なかなか言葉には言い表しづらいが、この人間であるが故に感じる苦しみがあるからこそ、人生は素晴らしいと感じた。
 
 
 
「苦しみ」と「喜び」、それは表裏一体なのだ。苦しみの無い喜びはなく、喜びの無い苦しみも無い。
 
 
 
そしてそれらは、私の外側には無く、私の内側にあるのだ。内側にあるものを、外側に投影しているから、外側にあるように感じるだけだ。
 
 
 
その時私は、「この世界を創り出しているのは自分だ。」と悟った。
 
 
 
その瞬間、すべてが一変した。
 
 
 
被害者だった自分から解放された。すべては私が創り出しているのだ。人生に起こること全ては私に責任がある。
 
 
 
「ああ、人間って本当に素晴らしいな!」
「その人間のひとりに生まれて本当にありがたい。
 
 
 
そういう思うと涙がとめどもなく流れた。
 
 
 
釈迦が2500年前に「人生は苦である。」と言った。
 
 
 
これを聞くとだから諦めろとか、そういう心掛けでいれば苦を受け入れられるとか、そういう風に考えるかもしれない。
 
 
 
「人生は苦である。そして人生は素晴らしい!」、そういう風に彼は伝えたかったのではないか?
 
 
 
少なくとも私はそう理解している。我々人間の心は、喜びを生み出すとともに、苦しみをも生み出す。
 
 
 
人生は時として過酷である。楽な時ばかりではない。それでも生きていることは素晴らしいと思う。
 
 
 
しかし、残念なことにその人生も永遠に続くものではない。やがてこの世から去る時が来る。それは愛する人との別離をも意味する。何とももの悲しいことである。
 
 
 
正直言って、「死」とは何かは分からない。宗教的な来世観は別にして、一体死んだら何があるのだろうか?
 
 
 
なんというか、有るとか無いとかの言葉もそぐわないほど、徹底して何も無い気がする。
 
 
 
それが「空」であると気づいた。
 
 
 
一般にいう「有無」は「存在」という背景がなければ成り立たない概念だ。
 
 
 
この存在をつくりだしているのが人間の心の働きである。「空」の世界には「有無」が存在しない。もうそこには心が存在しないからだ。
 
 
 
抽象的な哲学論に聞こえるかもしれないが、「空」自体に意味があるわけではない。(あったとしたら既に「空」ではない。)
 
 
 
大事なのは人生の密度がいかに濃いものであり、それを創り出しているのはこの自分だということだ。逆に考えれば、自分が望めば、大概のことは成就する可能性がある。
 
 
 
そしてその人生も、やがては終わる。死なない人などいない。これは真理である。
 
 
 
だから周りの人を愛し、自分が成すべきことを成すことが大事だと思う。そう思うと、私は励まされ、今やれることをやろうと思える。
 
 
 
私は禅に救われたのだ。
 
 

2015年4月30日 (木)

拈華微笑


拈華微笑(ねんげみしょう)


昔々、お釈迦さんが多くのお弟子さんの前で説法をした時、黙って花を一輪つまんで見せた。


皆は何のこっちゃと黙っていたが、只一人マハー・カッサパだけはニッコリと微笑んだ。


それを見たお釈迦様は、「真理を言葉によらず、教えではない別のやり方で伝える術を彼に委ねよう。」とおっしゃった。


花の美しさは、言葉だけでは伝わらない。


それは愛と似ている。


言葉で説明しようとすると、かえって本質から遠ざかってしまう。